MENU

日誌

次の社会でも必要な力。桜井ゼミの読解の時間

 

学びの森、桜井先生のゼミの時間。

 

桜井先生のゼミでは、広告を読み解いてみたり(広告を『読む』)、アイデンティティについてある角度から考えてみたり(わたしは   です。)、あるものを言葉だけで説明してみたり(説明する~植物編~)、小説をじっくり読んだり(村上春樹を読む、そのいち」「そのに)…。いろんなことをしています。

 

 

この日、中学3年生と高校生たちは、小林秀雄の「人形」を読んでいました。

 

 

 

 

桜井先生のゼミは、2階のゼミ室でおこなっています。

 

 

 

簡単にあらすじを説明しますと…

 

舞台は急行の食堂車、4人掛けのテーブルに1人座り晩飯を食べていた「私」。前の空席に上品な老夫婦が腰をおろし、細君は背広を着ネクタイをしめた大きな人形を取り出した。人形は亡くなった息子に違いないと考えた「私」を前に、妻は人形にスープを与える。そこへ、大学生かと思われる娘さんが「私」の隣に座る。一目で事態を悟り、この不思議な会食に順応した彼女に、「私」は私の心持ちまでも見られてしまったとさえ思う。

 

 

 

 

この日の主なテーマは、

 

「『大学生かと思われる娘さん』をなぜ登場させたのか」。

 

 

 

 

人形に食事を与えようとする夫婦と、その特殊な光景を一瞬にして理解した「私」だけであれば(その理解は「私」の理解であり事実ではありませんが)、その場はある意味平穏な会食として過ぎ去ったはず。

 

そこに「大学生かと思われる娘さん」が登場することで、その異常でありながらも平穏な場が壊れるかもしれないという緊張が走るはず。その瞬間に「私」と「娘さん」の間に生じた、「心持ち」まで見られてしまったという感覚。

 

 

 

 

―筆者はこの「私」と「娘さん」の、一瞬にして交わされた不思議な心のやりとりを描きたかったのでは?

 

―一瞬にして人の心持ちを見てしまうという異常性が、この状況の異常性を際立たせるからでは?

 

―「私」はまるで自分が何もかも理解しているかのように、この夫婦はこれまで「周囲の浅はかな好奇心とずいぶん戦わねばならなかったろう」とその苦労を思っているが、「私」も「浅はかな好奇心」を抱いていないと言えるのか?

 

―「娘さん」はそんな「私」の「浅はかな好奇心」をはらんだ「心持ち」まで見抜いているのでは?

 

 

 

 

こんな風に、桜井先生の出す問いにより、みんなから様々な読み方や意見が出てきました。

 

 

学びの森のゼミは異なる学年の生徒がみんな一緒に参加するので、読解の時間でも、出てくる意見や読みの幅が広いところが面白いんです。

 

 

 

 

「そんな風に読んだんか~!」と驚いたり、「それはないやろ~」と思ったり、「あ、この読みもアリやな」と納得したり。

 

 

「自分の意見を持つこと」「論理的に説明すること」「他者の意見を受け入れ、咀嚼し採否の判断を下すこと」といった、次の進路先や社会に出ても必要ことがここでは行われているなと感じます。

 

 

 

 

久しぶりに桜井先生の読解の時間に参加したタナカ。

 

作品を「読む」のに、「正解」はなく、だからこそいろんな読みが出てきておもろいな~と、いち参加者として楽しんでしまった1時間でした。(仕事しろ)